こころのなか、こころが一体どこにあるのかもわからないまま、
書いてみる。
私は東京・世田谷区の桜という地域で育った。
小学校の名前は桜小学校。
校章は桜の花で、登下校の時にはそのマークのついた水色の帽子を
かぶるのがルールだった。
校内には桜の木が一列に何本も植えられていて、
春になると一斉に咲くのだった。
だから、桜は身近な花だった。
年齢が進んである時、櫻という漢字に出会った。
貝二つに女。
純粋に綺麗な文字だと思った。
そのころから、私の中でさくらと言えば櫻だった。
難しい漢字を略すのは分かる。
だが、櫻が桜では、何の感傷もないではないか。
さくらを、皆一様に綺麗だと言う。
けれど今の自分にその綺麗さの、
本当の中身を感じ取る余裕がないことに気がつく。
もしかしたら、あのいかにも「私咲いてます!」
というオーラが少し苦手なのかもしれない。
そして、桜の季節になっても、昔あったような卒業や入学といったような、
自動的に切なさと高揚感を伴うイベントとも無縁になったからかもしれない。
それでも、花は、それだけで新たな季節の到来を、
心のとても深い場所まで教えてくれる。
花は、ひとときの安らぎを与えてくれる。
そして花が散った後の新緑は元気を与えてくれる。
柔らかい緑は、安心感を与えてくれる。
勢い良く咲くことも、すぐに散ることもない。
いつも、当たり前のようにそこにある。
一過性のイベントもいい。
でも、当たり前のようにあるものこそ、最も貴重で愛したいと思う。
桜の、いや植物の本当の魅力は、
一年の大部分を占める緑の時期にこそあると、私は思う。
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